思惟日記

日々考えたことの記録。

WELQの炎上で分かった日本人の聖域思想

日本人の聖域思想

 DeNAの運営するWELQが炎上して以来、キュレーションメディアに対する不信感が燻り続けている。非常に御粗末な事件であると同時に、DeNAという新興企業の限界値が世間に暴露された事件であった。WELQの問題の本質については様々な媒体で議論が既に為されており、敢えてここで議論する様なことでもないのでここでは立ち入らない。

 今回は寧ろ、WELQの炎上に対する日本人のリアクションに焦点を絞ってみたいと思う。個人的には、WELQの炎上によって、日本人の持つ聖域思想が浮き彫りになった様に感じる。

 どうやら日本人は、経済競争や自由競争に委ねてはならない領域があるということを強く信じているらしい。医療や教育に関する領域が好例だ。「貧富の差によって受けられる医療に差があるべきではない」「貧富の差によって受けられる教育に差があるべきではない」と主張すれば、大抵の日本人は頷いてくれるだろう。

 

WELQの炎上のある一面

 WELQも賢く利用すれば無償で医療の情報を得ることができるサービスであった。インターネットのなかった一昔前の人間が「誰でも何時でも何処でも無償で医療に関する情報を得ることができるサービス」と聞けば、どんな夢の様なサービスだろうと目を輝かせただろう。優良サービスそのもので

 今回は、WELQの炎上において「利益至上主義の結果として誤った情報を流布した」という点において非難されている一面に着目してみたい。すなわち、DeNAが、①医療という聖域において誤った情報を流布した事実と②医療という聖域において利益至上主義を貫徹した企業体質の2点において非難されている一面である。当然それ以外にも記事盗用を始めとする無数の炎上要因があるが今回は立ち入らない。

 

ネット上の情報は適当で当たり前

 たしかに、WELQの発信していた情報の中には、真偽確認が為されていなかったり、間違った情報もあった。しかし、インターネット上の情報とは「誰もが自由に利用できる代わりに真偽判断を自己責任の下で行う義務を負う」ものだ。インターネット上の情報は「適当であること」が前提なのである。

 WELQも所詮はインターネット上で情報を提供するメディアであり、WELQの情報が所詮はインターネット上の「適当であること」が前提な情報に過ぎないことを認識して利用者は利用していたのではなかったのか。

 健康に関する領域とはいえ、「適当であること」が前提のインターネット上で提供されている上に無償で利用できるサービスにまで完璧な情報を発信することを求めるのは余りにも酷というものだろう。インターネット上で無償で得られる情報を端から疑いもせず信じることを非難せず、「適当であること」が前提のインターネット上で提供されている上に無償で利用できるサービスにまで完璧な情報を発信することを求めるのは、ノーコストで情報が得られることが当然のインターネット時代ならではの弊害そのものだ。

 WELQの情報が誤っていたとしても、それを以って直ちに非難することはできないのである。仮に、WELQが有料で正確な情報を発信することを売り文句とするサービスであったなら非難することもできただろうが、実際はそうではなかったのである。

 

医療を金儲けに利用して何が悪い

 多くの日本人はWELQに対して、誤った情報を発信していたことに加えて「医療に関する領域を金儲けに利用した企業体質」という道義的非難を加えているに感じる。これこそ、まさしく聖域意識から発生する非難であり、これが非常に不可解だ。

 日常で意識することはないが、日本は紛れもなく資本主義を国是として掲げる国家である。こうした社会において、医療に関する領域だから金儲けに利用してはならない等というルールは存在しないのである。

 資本主義の下では万事が競争原理の下で動いており、騙される愚者が悪い。医療や教育に関する領域を経済競争や自由競争に委ねてはならない聖域と捉え、WELQの様な利用が無償のサービスに対してまで完全無欠さや清廉潔白さを求めるのは、資本主義の下に生きることを忘れている日本人の聖域思想の発露である様に思えてならないのだ。

 

WELQの炎上から分かったこと

 WELQに関する事情を鑑みれば炎上することも止むを得ないと感じるのは当然だ。今回はWELQを擁護する立場から意見を書いてみたが、道義的非難をDeNAに浴びせたくなるのは当然の感情であると思う。特に、組織的な記事盗用は悪質も極まる。

 しかし他方で、WELQを炎上させている我々の意識の中には、「インターネット上の情報を疑うことを当然としない価値観」や「医療に関する領域を金儲けに利用するべきではないとする価値観」が潜在的に存ずる様に感じる。

 こういった価値観がスタンダードとなると危険であることは最後に改めて反省しておきたい。